我思う故に我ありや?

 我思う故に我ありという言葉がある、まあ世の中のなんもかんもを疑っても今疑っている自分自身だけは疑えないよねみたいなそう言うニュアンスの言葉だったように思う。
 なるほどそう言われると例え自分が胡蝶の夢でも世界が5分前に創造されていても、自分だけは確かなように感じる。
 
 しかし、どうだろうか。「我思う故に我あ」と考えている脳に「り」と考えている私が接続されたとしたら「我思う故に我あり」と考えている自分は成立しないのではないだろうか。実際には言葉で考えているわけではないが時間軸の変化と連続性が担保されて始めて「私」の存在が確定するのではないだろうか?
 例えば「我思う故に我あり」と考えている時に、時の流れが止まったとしてその状態の私は、我あるのだろうか。怒りや悲しみといった感情は時が止まっている私の脳内をなにかしらの方法でスキャンすれば取り出せるかもしれないが、時が流れていなければ「我思う故に我あり」と思っている自分ですら「我思う故に我あり」ではないのではなかろうか。
 
 自分でも何を言っているのかわからない。だが、最近この連続性というものが脅かされているような気がする。私は昨日仕事に言った自分から続いているような気がするのだが、同時に無職をずっと続けているという現実があるという確信があるのだ。私とは
 疲れているのだろう。土日になったらちゃんと寝よう。ところで今は木曜日なように思うがそれすら自信がない。