誰だぁーてパータイムスーパースター

「実際、極めて単純なことだが、二本足で歩いて間もないお前には、少々説明に時間が掛かりそうだ。」 ――ジェイス・ベレレンから野生語りのガラク


さて、このブログで僕は自分のことをい【自称・アタマイイ】とは言っていることからわかるように心から自分のことを頭いいだなんて言わなかったし、それどころか頭いいだなんていう文章は文脈依存で単独で置いてあっても意味なんてないよねー、って立場を貫いてきた。僕は頭よくなんてないし――――凡人どころか愚者ですらあるかもしれない。

これは賢者の記事ではない。賢者を志すものは不要である。

というのが、まあこのブログの立ち位置だった。信念だった。しかしあえて言おう。

これは賢者の記事ではない。それでも愚者はやってくる。

さて、僕は以前「頭いいって言ったって人のやることなんて脳でやるか神経でやるか筋肉でやるかくらいなんだから、頭いいって広すぎねー?だからそんな言葉に共通のイメージなんて持てるわけないよねー」というような内容を書いたと思う。
ならば、同時に「頭悪い」という言葉も意味なんてない、そういう風になると考えるのが自然だと思う。
まあでもそれ欺瞞だよね。馬鹿はいるよね?視界に入ってくるよね?
賢者について語っておいて、愚者について深くは語らないのは誠実な態度とは言えないだろう。だからこれは愚者についての記事だ。愚者が愚者について語り、愚者が愚者について怒る記事だ。もう一度言おう、これは賢者の記事ではない。それでも愚者はやってくる。


まあ、頭いい人ってある程度評価別れるけど、頭悪い人っていうのはいるのかな、って思います。
つまりですね、僕たちが人を「あ、この人頭がいい」って認識するのに必要なのは「自分にとって都合がいいことを喋っている」=「自分と結論が同じ」ということが多いのかな、と思います。少なくても僕は自分と異なる意見の持ち主のことを「この人は頭いいなぁ」って思えるほど成熟した精神性は持ってません。
しかしながら、世の中には色んな主義主張立場がありまして、Aという意見が都合のいい人aにとって頭いい人でも、Bという意見が都合のいい人にとっては頭いい人でないことになってしまいまして、だから頭のいい人というのは評価が分かれるんじゃないかなー、って思います。
だいたい頭いい人ってなに言ってるかわからないですしね。

それに対して明らかに間違っている人っていうのはまあ明らかに間違っているんですよ。
例えばどっかで読んだけど武装錬金を読んで「ホムンクルスとか鋼の錬金術師のパクリやめろ」っていうお手紙を書いた人がいるそうですけど、まあ彼は明らかに間違えてて、しかも敬意が足りなくて、迷惑で、まあ10人いたら9人くらいは「あ、ぶん殴って更正させていい人類だー」って思うと思うんですよね。
まあ、この例はちょっと明らか過ぎるとしても、例えばまあ「いじめられるような奴はクズで役に立たないから、いじめられることで人に快楽を提供して初めて社会の役に立てる」とか、そんな感じのまあ「よし、間違ってるから殴ろう」っていう意見の持ち主ってそこかしこにいるじゃないですか。

「頭がいいとか文脈依存の文章だし、それと同じように頭悪い人なんていないよ」と、まあ、そういうべきなのかもしれないですけど、実感としてまあそういう人をみたら「あ、馬鹿だなー」って思いますよね。
ひとまずそれだけ言いたかった。インターネットではよく大多数の人が「あ、この人馬鹿だ」って思うような人間がいる、そしてそれに比べて明らかに頭のいい人間はそうはいない。そういう風なことが言いたかった。




ちょっと閑話挿入します。
ところでSNSの人たちって共通の話題さえあればその話題の内容や質は問わないみたいな印象を受けることってありません?
僕たちって、年間行事とか、テレビCMとか、流星群とか、誰それが逮捕とか、Twitterとか2chがどうとか、本当にそんな話題で話したいんでしたっけ?
なんか、みんな話してればそれでよくて、内容なんてどうでもよくて、そんな風に発言してしまうことってありませんか?
閑話休題




本題入ります。
まあ、馬鹿はいいんです、馬鹿は。そういう人が世の中にいるのはとてとて残念なことですが仕方ないです。
僕が気に入らないのはね、僕が腹立つのはね、そういう人たちを話題にせずにはいられない人たち――――そう、ディスプレイの前の貴方です!!!
ごめんなさい、言いがかりつけました。
まあ、気持ちはわかるんですよ。明らかに間違っている人がいて、それがしかも人の努力を冒涜したり、他者をまったく尊重しなかったりするような意見を言ってたらクッソ腹が立ちますから。なにか言ってやりたくなります。ぶっちゃけそういう人たちを責める立場でこの文章書いてるけど僕もよく話題にあげます。
間違っている人に間違っていると正義の立場から世界に向けて発信する、それは快楽だと思います。だからみんな炎上とかさせるんだなー、って思います。弓の持ち方が間違ってるとか、いじめられっ子は間違ってなんかないとか、例え一時のこととはいえアカデミーで研究というものに関わった身としては捏造は絶対に許せないとか、そういう風に表明するのめっちゃ楽しいです。
でもみんな馬鹿に構い過ぎじゃないですか。もういいじゃあないですか、馬鹿は馬鹿なんだから。インターネットで流行りの議論とかももう「あ、これは明らかな馬鹿だな」って人は見えないふりして存在しないものとして扱えばいいじゃあないですか!っていつも思います。
いや、「これが正しい態度だと思うのでそうしましょう!」って話ではないです。むしろ、僕も多分そういう明らかに馬鹿だった時代があるかもしれなくて、そういうときにちゃんと指摘してくれる人がいたから少しはマシになったのかな、って思います。だから誰が間違っているかっていうと僕が間違っているかもしれません。
でももう馬鹿は無視しませんか?存在しないことにしませんか?そうやって君たちが馬鹿を話題にするから馬鹿が視界に入って僕は大変不愉快です。きっと話題にしない方がみんな楽しい、僕は楽しい。正しいとは思わないけど「楽しいからやりません?」っていうお話です。
貴方がたは豚です。単細胞生物です。正義の豚です。
正義を為すこと、悪を正すこと、そんな快楽を満たそうと欲求ままに発言することのどこに文化があるんですか。動物的じゃないですか。動物化してるじゃないですか。少しでも温かい場所に移動しようとする単細胞生物とどこが違うんですか。そうじゃあないでしょう。そんなじゃなかったはずでしょう。

いつからだ……?
インターネットで見かけた明らかに間違っている不愉快な意見に否定的なコメントをつけるようになったのは、一体いつからだ。
大多数の人間が明らかに間違っていると認識する、「叩いていい相手」を話題にして、隣の人と同じ意見を言っていることに安心するようになったのは?
そんなんじゃねぇだろ、僕たちが求めたコミュニケーションは!
正しいかどうかわからない意見が割れる話題にこそ、全霊を以て臨む事!!
感謝するぜ、論破とやらをしてくれて間違えを正してくれた相手に!



さて、「感情のままに愚者を相手にしてんじゃねーよ」って話を感情のままにエモーショナルにぶつけてみました。
矛盾してますねー。愚かですねー。最後に最初に言った例の文句をもう一度言って終わりにします。

これは賢者の記事ではない。賢者を志すものは不要である。