唸れ!叫べ!命、砕け!

彼は世界に対して怒り、家族に対して怒り、自分の人生に対して怒っていた 。 だが、だいたいは理由もなく怒っていたんだ。

驚いたことに、ブログに書きたいことがない。
世界に主張したいことがない、発信したいことがない、訴えたいことがない、この胸にブログを書く動機が見つからない。 それは私にとって、とても瞠目すべきことであった。
いつだって私の胸には世界に対する怒りが溢れていた。私は無理解や無思考に怒っていて、このブログはそれを叩きつける場所だった。
だが、それらはもう過去のものだ。私の胸の中にはもう怒りが見つからないのだ。
だからもうこんなブログは閉じてしまってもいいのかもしれない。穏やかに過ごせるのならこんなブログはもういらない。思えば、インターネットに繋がったあの日から私はずっと怒り続けていたように思う。そろそろ大人になってもいいのかもしれない。



――――いや、あった。
どうしようもない怒りが私の中にまだあった。どうしようもなく許せないものがまだあった。
「萌え袖」という言葉だ。余った袖を指すその言葉だ。
いや、正確には言葉が嫌いなわけじゃない、罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、罪や言葉みたいな概念を憎めるほど高級な精神性はしていない。嫌いなのはもちろんそんな言葉を平然と使えてしまう人間だ。なんの疑問もなくそんな単語を使えてしまう情緒の欠片もない豚の感性だ。
ああ、こんなことを言ってもきっと多くの人に「こいつ、何を言っているんだろう」という目で見られることは承知している。そして「じゃあなんと呼称すべきなのか」などという的外れの質問をされるだろう。
そうではない、私が嫌いなのは人間なのだ。別に余った袖のことなど好きに呼べばいい。というか別に私は余った袖を指す言葉など必要がない。そんなに余った袖は身近なものではないし希に口にすることがあるのなら「余った袖」と呼べばいい。むしろ、萌え袖に代わる流行っている呼称がないおかげでそんな言葉を使用してしまえる豚どもを発見できて便利なくらいだ。人と豚を分けるリトマス紙と言える。


萌えるものに萌えという表現をあてる行為の情緒のなさに何故疑問を抱かないのかと思う。おそらく、これは、「ブヒれる」とか「シコれる」などの言葉を嫌悪する人間と同じ心の動きなのだろう。私はそれらの表現は嫌いではない、あえて直球勝負に出たところに文化力やメタ的に自分の姿を省みる心を感じている。彼らは自覚的なのだ。自覚的に豚であろうと言うのであれば――――それは逆説的に人であると言うことだ。「おれら豚だしw」という態度は人間しか取らない。
だが、萌え袖派違う。彼らは無自覚に豚だ。記号化の果てに情緒を失った豚だ。彼らの人間らしい感性は死んでいる。そんな表現が通るのならば――――そんな表現がまかり通ってしまうのなら、絶対領域は萌え太ももで、ニーソックスは萌え靴下、ぱっつんは萌え前髪とでも呼称すればいい。ついでに自分のことは豚とでも呼称しろ。


ああ、なるほど、確かに私たちは女性を「そういう視点」で見て消費している。彼らが豚であるのなら私もまた豚かもしれない。だが、それでも私は信じている、そうでない、もっと輝けるものが作られた女の子を見る視点にあるって信じたい。私たちの見ているものは分解可能な属性の集合体ではないと信じたい。そこに輝けるものがあると信じたいのだ。
萌え袖という呼称は女性をポルノに変える行為だ。そこにある視点は「萌えるもの」に固定されてしまう。 エロいものはエロいでいい、萌えるものは萌えるものでいい、だがそこにそれ以上の何かを信じられなくなったらそのとき私たちは本当に豚になってしまう。視点が萌えに固定されたとき彼女たちは人格ではなく餌になる。そんなものは豚の餌だ。だから私はその呼称を受け入れることができない。
そうだ、私だって女性を消費しているとも、否定はできない。彼らを豚と私は呼び続けるが、私が豚でないなどと言えない。言われたならば甘んじて受けるしかないだろう。でも、愛する可能性、あるいは愛があるという建前を失ってしまってそれでいいのか。
よくないだろう。
よくないと感じて欲しい。
私を絶望させないで欲しい。


そんなか、そんなにもう作られた女性を消費する文化は割り切るところまできてしまったのか?
どうか「君」にはこの質問に「否」と答えて欲しい。


私はこの記事に対する君の意見を待っている。メール、掲示板、各ソーシャルメディア(はてなOneGoogle+、mixi)で送って欲しい。
それではまた次回、私が怒るときお会いしよう。
その日まで、あなたが人間であり続けますように。