癒えぬ痛みをむぅねぇに! そのはぁがぁね!あかぁく!染ぉめてぇ!

俺。


最近少しヘイト二次創作についての話題が視界に入ったのでそれについて記事を書こうと思う。
もともと、二次創作について書こうという考えはあり、そこにこういう話題が視界に入ったのは渡りに船だと思った。はてなブログを始めたからには他のブログの記事を引用してそれについてつらつらと自分の考えを述べるような、そういったはてな界隈でよくみるタイプの記事を書くべきだ、という使命感が俺にはあった。だから友人が書いた記事を下地に書いてやろう、という気持ちがあった。あれだけ多くの人がやっているのだからきっとそれはやってみれば面白いに違いない――――そう、思っていた。思っていたのだ。
だが、考えれば考えるほど俺は二次創作という切り口で物事を考えることはできないということに気付いた。俺にとって二次創作というテーマは真摯な問いかけ、有益な立脚点、勝ちのある命題、そういったものになり得ないのだ。
俺は結局のところ、俺にしか興味がなく、俺についての記事しか書けなかった。



これは二次創作についての記事ではない。二次創作についての記事を求める者は無用である。



しかし、それでもやはりこの記事の始まりはヘイト二次創作についてから始めるのが妥当だろう。ヘイト二次創作という概念について知らない人は多いはずだ、そこまでメジャーな概念ではないからな。それはどうやら"対象を問わず、悪意(hate)をもった中傷の意図を含んだ創作。ピクシブ内では一次創作物に登場するキャラクターや一次創作物への憎悪・悪意によって作成された二次創作物を指すことが多い。"という概念らしい。
これはヘイト二次創作についての記事ではなく俺についての記事なので詳しい定義は無用である。それでも気になる人はここでも読めばわかるだろう(リンク先は英語)。
さて、おおむねわかると思うが、俺が目にしたヘイト二次創作についての話題とはつまりこれを叩く側と擁護する側の議論だ。叩く側は「作者への愛がない二次創作など言語道断である」、「ファンコミュニティが疲弊・衰退を起こす」、「版元からの苦情が来る」などの理由で禁止にすべきであるといい、それに対して擁護側は「自由に口にする権利がある」「それに対して文句を言う資格があるのは権利者のみである」などの理由で擁護していた。
俺はその話題に興味が湧いた。だが、その時は気付いていなかったが結局のところ俺が興味あったのはその話題そのものではなかったのだと思う。俺は恐れていたのだ、俺もまた断罪されることを、彼らのある種の人間に対する想像力のなさに。


俺とて、ヘイト二次創作についての嫌悪感は理解出来る。原作に対する愛を感じられないものに対しての嫌悪感はある。漫画版Vガンダムのことを許したことは俺の生涯に1秒たりともない。だが、それは「愛を感じられないもの」に対しての嫌悪感であり、決して「愛がないもの」への嫌悪感ではないのだ。俺は神ではない、故に作品に愛があるかなどわからない。だが、一部の人間は愛のなさを叩いているのだ。
「自分が不快だから」「コミュニティの衰退を招くから」だから禁止するのが正義であると、それはわかる。理解出来る。それは、あるいは間違っているかもしれない、だが率直であり、真摯な態度だと思う。だが「愛がないから」という理由でヘイト二次創作と呼ばれている物を批判している人間がいて、俺にはどうしようもなくそれが恐怖なのだ。彼らは「悪意がなければ醜悪な創作などできない」と信じているのだ。そこに俺のような人間に対する想像力はない。


多くの二次創作作者がそうであるように、俺は己が信じる物しか書けない、あるいはどうしようもなく書きたくない。
別に信念だとか、リアリティだとか、そういう大層な話しがしたいわけではない。多くの人は自分の想像つかないものを物語ることができないと、ただそれだけの話なのだ。例えば素人の書く多くの小説は雨が降ったとして「雨の臭い」についての描写がない。それはもちろん多くの場合いらないというだけの話だが、雨が降っていたという描写をするさいに雨の臭いについてまで想像力を働かせる人間が少ないと、そういうことでもあるのだと思う。
あるいは俺はラブコメでよくあるようなぼそりとヒロインがなにかを呟いて「なんだって?」と主人公が聞き返し、「なんでもない」とヒロインが答えるような、そういう描写は書けない、あるいは書きたくない。俺の知るキャラクターという物は、人間という物はそんな行動をしないからだ。相手に聞えるような小声で本音を漏らすなどという行動がどうしようもなく空虚な、絵空事に感じるのだ。故に書けない。
現実の人間はそんなことしない、などという話ではない。別に現実にそわせる必要などどこにもない。好きなだけ現実にいない萌えるキャラクターを描けばいい。だが、萌えるキャラクターを描いているとき、現実にそんな人間はいなくても、やはり「信じている」から書けるのだと、俺はそう思う。そういうものを「想像できる」から書けるのだ。


俺にも何度か創作の真似事の経験がある。俺は何度も物語を書いた。
だが、俺の書く主人公たちは決して幸せになれなかった。登場人物たちは四肢を失い、臓器を失い、失われたものの多さに涙して――――彼らが「悪意がなければ書けない」と思っているような醜悪な作品がそこにはあった。俺は俺の信じる世界をそこに書いたのだ。幸せな結末を一番望んだのはおそらく俺だ、俺をモデルにしたキャラクターたちに俺は幸せになって欲しかった。だが、俺は「俺の信じる世界」を描き、その結果として彼らは幸せになれなかった。
俺に登場人物たちに対する悪意があったから、そんな作品になったのか?俺に悪意などなかった。いや、悪意ならばある、俺は俺のことが嫌いで、世界のことが嫌いで、幸せになれるなどと、愛で全てが解決するなどという戯言が嫌いだった。


今、俺が例えばKANON美坂栞を題材にした二次創作を書いたならば、「美坂栞の圧倒的な強さを前に人が恐怖を覚える物語」か「美坂栞の強さなど想像力の欠如しかなく、彼女は本当は弱かった」という物語を書くだろう。
俺には美坂栞の強さを信じる心はない。彼女のことは化け物か、あるいは無知としか描くことができない。彼女を人間だと信じることは俺には無理だ。美坂栞の強さが創作者の想像力の欠如にあったのならば、もう少し弱い美坂栞を描くこともできただろう。だが、美坂栞の物語において美坂栞はどう考えても圧倒的な強者として描かれている。その証拠に美坂香里は人間らしい、責められるべきかもしれない、だが初めに石を投げることは誰にもできない弱さが対比するように描かれている。走れメロスのメロスとて一時は諦め書けたというのに、メロスとセリヌンティウスはお互いたたき合うことで初めて抱擁できたというのに、美坂栞は一方的に美坂香里を許すだけである。
正直に言ってしまうと――――怖い。美坂栞の強さは、怖い。


だが、それを描いたとき、彼らは「愛がない」と俺の物語を評し否定するのではないか、それが俺の恐怖だ。彼らは想像できないのだ、作品に対する悪意などなくても、四肢を切断し、人間関係を崩壊させ、強さも、ハッピーエンドも信じられない、俺のような存在がこの世界にはいることが。


俺には二次創作をする資格などないのだろうか?そうかもしれない、作品ないに書かれた世界が信じられないのならその世界についてなにも書くべきではないのだ。だから、俺はおそらく上に書いたような KANON SS を描いたりはしないだろう。俺にはもうこの世界にあるあらゆる物語が信じられないのだ。そして、もし俺に信じられるような物語があったとしたら、それを愛することはないだろう。俺は俺の世界を憎む。俺の信じられる世界に――――二次創作したいと思うような「愛」を抱くことはないだろう。


巫山戯るな!俺とお前らの間にどれほどの差がある!同性愛を物語に投影するような人間を嫌悪するお前らがそれとどれだけ違う!ならばお前らの好きな二次創作とやらはなんだ!世に溢れる二次創作など俺と同じように信じる世界にそうように全て醜悪にねじ曲げられているだろうが!純粋なキャラクターを見れば腹黒にしたがる貴様らの世界には純粋な人間などいないのだろうな!真摯に人のために尽くすキャラクターを見ればそこに性欲を見いだす貴様らは利他的な信念など信じられないのだろうな!
俺は世界を冒涜したかもしれない、貴様らと同じように!ああ、俺が間違っていて貴様らが正しいのだろう!だがそれは貴様らが単に多数派だからというだけに過ぎぬ!お前らは「多数派の俺たちが不愉快だから」という理由で俺たちを否定することしかできない!愛だと?愛があれば理解出来るのか、愛があれば世界を信じることができるのか、物語に愛があればハッピーエンドを信じられるのか!それが貴様らのいう愛か!手の届かぬものに憧れてはいけないのか!自分にはない、その美しさを愛してはいけないのか!貴様らは俺の愛を……俺の邪悪を否定することなどできない!


善き二次創作だと?馬鹿馬鹿しい。原作者が喜ぼうが、信者が受け入れようが、そんなものは下らぬ枝葉末節に過ぎぬ。二次創作はただオリジナルというだけで醜悪なのだ。
二次創作することは悪行であり、二次創作者は悪鬼なのだ!そこに例外はない!



ここまで読んだ人のうち、もしかしたら分かったかもしれない人がいるかもしれないけど今、装甲悪鬼村正やってます。いや、随分前に一度やったけど、もう一度買いました。