次の瞬間張り手食って目の前 キラメクシュティスター

好きとか嫌いとか、そういうのって食べ物とかに対して適用すべき概念で人間のことを好きとか嫌いとかいうのおかしくないですか?

・何かを好きになるということについて

最近、人だとか作家だとかゲームだとかサービスだとか色々なものに対して好きだと言うたびに「本当に好きなの?本当はどうでもいいんでしょ?」と言う第二の自分がいる。アレだけ好きだった作家の新刊をなんとなく買わないまま時間が過ぎて、あれだけ時間を費やしてきたゲームもあるとき急に触れなくなって。誰それと仲がいいとか言っても嫌われてもなんとも思わないんじゃないか自分で思う。
というか好きとか嫌いとかよくわからない。作品が面白かった、とその作品を書いた作家が好きは等号で結ばれるのだろうか。清涼院とか竜騎士とか日日日とかわりとインタビューなどでドン引き発言を繰り返してるけど作品の面白さと結びつけて考えなきゃいけないのだろうか。 人を好きになるってなんだろう。「その人の対象Xに対する考えが興味深い」とか「その人と話してて面白い」とか「その人に尊敬されたい」とか「その人と過ごした時間はかけがえのない思い出だ」とか、そういうのと等号で結ばれるんだろうか。まったく好きとか嫌いとか最初に言い出したの誰なのかしら。メモリアルは駆け抜けていくばかりだ。
それでも何かを好きじゃないとあまりに生きていくのは退屈だ。だから何かを好きだと多分言い続けていくんだと思う。仮に何も好きになれなかったとしても。



アニメ戦国コレクションが終わった。上にあんなことを書いてしまった以上好きだと書くのは抵抗があるが毎週楽しみにしていたのは確かだ。 戦国コレクション終了後Twitterで「ところで蝉さんは戦国コレクション何話が好きでしたか」と聞かれた。確かに戦国コレクションはオムニバス形式で話毎に出てくる登場キャラクターも作品の雰囲気もまったく違う。だからその質問は非常に納得のいくものだ。しかし、私は戦国コレクションという作品がこうして完結して話そうというときにその設問のしかたは何かが違うと感じた。

・アニメより小説の方が好きだということについて

私はアニメという娯楽は実のところさして好きなわけではない。それなりに観てはいるが小説や漫画に比べて好きかと問われるとそうでもないし、観ることができなくなったら観ることができなくなったで「ふーん」で済ませてしまいそうなところはある。全体で比較すると同じだけ時間を使うなら小説を読んだほうが得られる幸福の期待値は高い。アニメはアニメで好きではあるが、まあ三番手四番手くらいの娯楽だ。 これについて考えるとおそらくアニメというものは制作にかかわる人間が多すぎるところがよくないのだろうなぁ、とぼんやりと感じている。才能というものはおそらく酷く尖ったものでそれは一人でしか表現できないものなのだ。制作に多く関われば多く関わるほど、制作費がかかればかかるほど、無難で鈍いものしか生まれない。そういう風に感じているのだ。その自分の感覚を論理的に補強するような材料はあまり思い付かないので本当にただぼんやりとそうだと感じているだけだ。
小説は人間が一人机の前で唸って作り上げるものだ。だから100%個人の世界観とセンスによって制作物は構成されている。(これは少しばかり過剰な表現だと思うが)また、週刊や月刊の連載というものはそれだけで制限が多い。例えばジャンプでは序盤に盛り上げないとアンケートがとれず打ち切りになるからどれも読み味が同じになるといったような批判をどこかで目にした記憶がある。その批判の正当性はあまり感じないがそういうなにがしかの制限がかかるのは確かだろう。
なお、この理論でノベルゲームの本質は材料を使い回すことだみたいな考えがあるけど今回の本質じゃないので触れない。気が向いたら(このフレーズを使ってその後気が向くことってあまりないけど)その考えについても書きたい。



だからだろうか、アニメ戦国コレクションの存在が奇跡のように感じられてしまうのは。
私は戦国コレクションのことを語るとき「奇跡のようなアニメ」という表現をよく使っている。あのような形でアニメ作品がこの世界に生まれること、それ自体が奇跡のように感じられたからだ。
あのアニメはお金がかかってなければできない映像的な暗喩や演出を駆使して、なおかつ実験的で個人のセンスに満ちあふれた作成がされていた。それだけならば珍しくないかもしれないがとにかくこのアニメは「どういう経緯でこんなアニメが生まれてしまったんだろう」と感じさせる何かがあった。ソーシャルゲーム原作のアニメ、という非常に不安しか覚えない成り立ちからよくもまあこんな作品が出来たものだと、そう思う。
きっと奇跡が起こったのだと、そう思う。

・アニメについて語るという行為について

アニメについてブログで語ろうかと思った。アニメについて人と喋るのはすごく楽しいけど、ブログに書くとなるともっと違うことが求められる気がする。例えば書いた結果そのアニメを観る人が増えるとか、あるいはアニメについてこれまでなかった視点を人にもたらすとか、文章として面白いとか。
私はアニメについて語るという行為に「楽しかったねー」って和気藹々とする以上の意味を見つけられるだろうか。



(ここまで読んでくださった賢明なる読者諸君はお気づきのことと思うが)私は戦国コレクションというアニメというアニメを面白いと思っている。しかし、あまり人に対してあまり「観よう!」と薦めはしなかった(ような気がする)。
その理由は簡単で戦国コレクションを十全に楽しむには、1話から観ることが必要だと思うからだ。1話から観た戦国コレクションは本当に芸術的で、奇跡的なアニメだと思った。
1話を観て、切ろうかと思いつつも2話と3話を観て、4話を観て期待を高めて、それから毎週戦国コレクションを楽しみにするようになった。特に戦国コレクションというアニメを計りかねていた10話くらいまでだろうか、毎週「どうなるんだろう」と楽しみにして、そしてその期待は毎週満たされ、なおかつそれはまったく予想していなかった内容だった。

・再び好きになるということについて

やはり私は戦国コレクションが好きというのはどこか自分で嘘くささを感じてしまう。
しかし、戦国コレクションを観ている時間は奇跡のようだった。
面白いとか、好きだとか、よくできてるだとか、そういうものが全て嘘でも戦国コレクションを観ている時間は奇跡的だというのは私の真実なように思う。
あのようなアニメが生まれ、放送された奇跡の恩恵を受けられて本当によかったと思う。




次は各話感想のような観た人向けのことを書きたい。