オゥ、ファイティングマァンイェー正義をっ気取っるっのさっ

友達がいる学生時代を送ったことのない奴の友達をつくれだなんて言葉信じるなよ。友達のいない学生時代を送ったことのない奴の友達をつくれだなんて言葉信じるなよ。

ブログやってほしいと言われたのでやってみます。

優しいって評価は人に優しくしようと思えるっていう動機の話と、人に優しくできるっていう技術の話があると思うのですが後者が少し軽視されてるんじゃないかなー、という気がします。
人に優しくするのって意外と難しくて、まずどうしても最初に気付くのは自分の考えと自分の立場と自分の感情ですからね。そこから自分と立場も考え方も違う他人のことを考えて他人の利益になる行動をしようっていうのは優しくしたい!っていう感情だけでできるほど簡単じゃないよう思うのです。才能経験値が必要だと思うんですよね。
私も生まれてからかれこれ21年くらい経ってるわけだけど、最近ようやく他人も自分と同じように色々なことを思う生き物だっていうのが言葉だけじゃなくてリアルな感覚として実感できてきた気がするのですよ。
いや、私はわりと中学高校とあまり友達のいないタイプの生活を送ってきたからかなり遅い方なんだと思いますけど。


人と上手くやっていけないけど、それは傷つきやすく本当は優しい人間だからみたいなステレオタイプってありますけど、人と上手くやっていけない人間は技術的な話をするのなら優しい人間じゃないと思います。人の態度から相手の感情を推し量るなんていう高等技術を行うために必要な経験を積めていないのなら優しい人間にはなれないんじゃなかなー、というのが正直な感想ですね。
あとまあ、それでぼっち同士は同じ経験を共有してるから仲良くできるみたいなもの、話としてはわかるけど人間関係初心者同士が集まってどうするのさ……コミュニケーション能力がない人と仲良くできるのは多分コミュニケーション能力があって許容力が大きい人じゃないかなーとか思ったり。


なんだか、悪意ある振る舞いになってる気がする。


自分の話に入ります。
私はあんまり中学高校とあまり友達がいないタイプの生活を送ってきたっていうのは上にも書いたけど、つまりまあその時期に孤立する奴は許せないみたいな感情を育てすぎたし、口にし過ぎた結果としてこういう独りぼっちの人に悪意ある意見を口にし過ぎるそういう人たちにとって優しさの足りない人間になってしまったのだなあ、と思います。
なんというかそういう独りぼっちだったときの自己認識としてはああ、私1人がいるせいで集団の空気が明らかに悪くなってる……。ごめんね……私がみんなの幸せよりも自分一人でいる楽さを選んだ結果として集団の総幸福量を下げて本当にごめんね……みたいな加害者側の認識だったので被害として自己認識してるタイプの独りぼっちの人が許せなかったのだと思います。
今になって思うと流石にその認識は強がりが過ぎるし全体主義が過ぎる思わなくはないんですけど、本音で喋りたいとか誤解されたくないとか楽したいとかそういう欲望をちゃんと制御したら人と仲良くできないなんてことはないと思うんですよね。もちろん、人に好かれる努力の仕方がわからない人もいるんだろうなぁ、とは思いますけど私の場合は(そしておそらく大多数の人は)人に好かれる努力をすればそれなりに好かれるだろうな、と思います。


でもまあ、そうやって独りぼっちの人をボロクソに言えてたのって自分がその集団に所属していたからであって、ぼちぼち抜け出してるような気がする今となってはわりと抵抗があるというか。
ありますよね、自分が所属してる集団なら気軽にボロクソ言えるみたいな感覚。自分が住んでる場所は田舎呼ばわりしても許されるし、自分の所属してる大学なら馬鹿の集まりって言ってもいいし、なんちゃらオタクはなんちゃらオタクのこと気持ち悪いって言っていいみたいな風潮。


まあでも、生まれてからかれこれ21年程度も経ってるんだから、いい加減SNS独りぼっちは本当は優しいみたいな発言みかけて苛ついてブログに悪意ある文章書くような子供じみた真似してないで、自分と違う立場の人にも想像力を働かせて優しく生きていくべきなんだろうなあ、って思います。
うわ、自分でも予想しないところに着地してしまったな……この文章。まさか自分に反省を強いることになろうとは……文章化すると客観的に見ざるを得ないみたいなブログのいい効果が出てしまった例ですね……。