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はいはいみんな頑張ってて偉いですねー

必要な分だけ必要な物を積めば、必要とする物に手が届く。

「必要な分だけ必要な物を積めば、必要とする物に手が届く。」
うん、間違ってはいない。少なくても「必要な物とは、必要な分だけ積めば必要な物に手が届くものである」と「必要な分とは、必要な物をそれだけ積めば必要とする物に手が届く量のことである」と定義すればまったくもって間違っていない。
間違っていない代わりに何もいってないような文章だけど、そもそもなにかをいっている文章というのが幻想で、書いてる人がなにかをこめるだけで、読んでる人が読み取るだけで、文章はただ文章としてそこにあるだけだ。
真理は真理で、数式は数式で、鷲のマークの大正製薬は鷲のマークの大正製薬なように、文章は文章だ。


世の中は結果だというような人がいる。それは僕も賛成だ、結果が重要で、過程は結果を出すためのものに過ぎない。
もっといってしまえば重要なものが結果だと定義している。さて、ところで「努力した」という結果を出したとしてそれを認めない理由がなにかあるだろうか。
「確かに私は成功するという意味での結果?は、出してませんが?努力したという結果を出しましたが?」といわれたら腹は立つけど理屈的にはまあそうかな、って思う。結果と結果でない物を分けるのは重要か重要じゃないかであって、重要かどうかの価値判断基準は各自にある。彼の結果を結果じゃないと否定することはちょっと難しい。


また当たり前でなにもいってないようなことを書いてしまった。ここからなにか読み取れるというのなら各自勝手に読み取ってかまわないけど、僕としてはなにかこめたつもりはない。ちょっと筆が踊って言葉ゲームしてしまっただけだ。


ところで努力するというかやる気を出すというのは最初の一歩かのように扱われているが、僕にとってそれは結果だ。もちろん最終結果でないにしろ、少なくても最初の一歩ではない。
やる気があればできるとか愛があれば解決するとかいうと「どんだけ頭の中、お花畑なんだよ」といわれるかもしれない。でも考えてみて欲しい、愛があれば解決するという世界観が意味するところはこの世で解決してない問題は愛が充分な量存在しなかったから解決していないという結論であるということを。それでも前向きで頭の中がお花畑とか言われなきゃいけないのだろうか。この世に愛が溢れていないのに。
例えばアメリカのお金持ち上位10%くらいの人たちが一斉に非常に強い人類愛を獲得したら解決する悲惨な問題というのは山のようにあるんじゃないかとか。

例えば僕に今この瞬間から目標達成のための努力以外の一切の行動を取らないほどのやる気が湧いてきたとしたらけっこうな目標まで実現可能なんじゃないかとか。
つまりこういう精神的なもので解決するというような意見が前向きでお花畑のように聞えるのは、精神的なものがいざというときに無制限に湧いてくるものだと考えられているかだろうか。冗談じゃない、理由もなく人を愛したり、やる気を出したりできるものか


だからやる気を出すっていうのは僕にとって結果なんだ。やる気を出すのに必要な材料を必要な分だけ積み上げることができたということだ。
それは例えば「報酬」だし「いい格好したいというプライド」だし「努力した結果としていい思いをしてきたという経験」だし「やる気を出すのに必要な栄養素の摂取」だし「周囲のみんながやる気出してるし……という同調意識」だ。
なんにせよやる気という資源は意識的に管理されるべきものだ。


今はすごくやる気が出ない。
あのあの、どこかで「努力した結果としていい思いをしてきたという経験」を確実かつスピーディに詰める経験値稼ぎに向いてるダンジョンありませんかね?
努力したら努力しただけ報酬が貰えて、決して努力が無駄にならないような稼ぎ場。
今の僕に必要なのはそういうものだと思うんだけど。